
書籍(最新10件)
良心的裁判員拒否と責任ある参加―市民社会の中の裁判員制度
2010年8月9日
拙著『良心的裁判員拒否と責任ある参加―市民社会の中の裁判員制度―』のご紹介を致します。
この本では、裁判員になるかもしれない市民が裁判員制度にどのように向き合うのかについて、良心的裁判員拒否を中心になるべく具体的に検討しています。
「良心的裁判員拒否」とは、人を裁く重みを感じた者が、自らの心に真剣に問いかけた結果として、自分は人を裁くことはできないと思った場合、その人が裁判員になることを拒むことです。
人を裁くことの重みを感じるということが1枚のコインだとすれば、そのコインの表が「責任ある参加」であり、裏が「良心的裁判員拒否」です。この二つは表裏一体であり、どちらも人を裁くという重みを正面から受けとめるものです。
良心的裁判員拒否という選択肢があれば、人を裁く重みを真剣に考えて、責任をもって参加するかそれとも拒否するか、一人ひとりが主体的に選択し、行動することになります。刑事司法の分野でのボランティアや寄付を代替的に行えば、裁判員となった人だけが負担を負うこともなく、幅広く市民が刑事司法を支えることにつながります。
良心的裁判員拒否という選択肢があることで、裁判員制度と自分との関係をごまかすことなく考え、主体的にかかわる機会が生まれるのです。裁判員が「お飾り」にならなず、市民が主体的に裁判員制度に向き合うための切り札が良心的裁判員拒否なのです。
全国の書店に置かれています。手に取っていただきご意見、ご批判、ご感想をいただければ大変うれしく思います。
(裁判員ネット代表:大城聡)
気骨の判決
2009年7月20日
かつて戦時中、国家総動員の空気が重くのしかかる中で遺書を書いて国に逆らう判決を書いた裁判官がいました。
吉田久、命がけで東條英機と闘った裁判官です。
いわゆる「翼賛選挙」では、政府に非協力的な国会議員を排除する意図があったとされています。
聖戦遂行の美名の下に、国民の投票の自由を実質的に奪う露骨な選挙妨害が行われました。
他の選挙無効の訴えが退けられる中、吉田久は特高の監視や政府からの圧力に負けずに
戦時中に唯一の「選挙無効」の判決を下しました。
選挙無効となった選挙区では、戦時中にもかかわらず選挙がやり直されたのです。
時代の大きな流れに屈することなく信念を貫いた裁判官の生き様がよくわかる本です。
「司法の独立」という言葉が血と肉を与えられ、結実したものの一つが
この裁判であったといえるかもしれません。
今は、マスコミによって、大きな流れや空気がつくられる時代です。
裁判員制度のもとでは、私たちが、その空気に流されずに
信念をもって裁判に臨まなければならないのです。
司法の独立とは何か、裁判の役割とは何かを考えさせてくれる一冊です。
評:大城聡(裁判員ネット代表/弁護士)
この国が忘れていた正義
2009年7月15日
「いまの日本は犯罪者『福祉』型社会なのだ。…この社会では、犯罪者にセカンドチャンスを与えることが優先され、被害者の救済は当然後回しにされる」
本書は日本の刑事政策に対して根本から疑問を投げかける。矯正関係予算として毎年2200億円(受刑者一人当たり330万円)もの多額の税金をかけながら、再犯率が四割近い更生プログラムの現状を、「大失敗の事業」と一刀両断する。
そして、著者は刑事政策の根幹を「更生モデル」から「賠償モデル」へと転換すべきだと主張し、その方法の一つとして「刑務所の民営化」を主張する。
「本書が提言する、刑務所の民営化は、犯罪者を立ち直らせるといった『神の仕事』から完全に手を引き、『人(として当然)の仕事』を始めることである。刑務作業に資本主義的原理を導入して、その利益を被害者に回すのだ。」
「むろん、どんな凶悪犯であれ立派に立ち直ってもらうのは一向にかまわない。しかし、そのまえに、人間としてやるべきことがあるだろう。自分たちが蹂躙した被害者にきちんと賠償すべきである。額に汗を流して働き、蛮行の償いをするのだ。そのための手段は唯一、刑務所労働しかない。」
本書の後半では、学校での「いじめ」問題にも触れて、
「『いじめ』の中味をみていくと、すべて刑法上の犯罪に当たる。いじめとは学校犯罪なのである。」と、いじめっ子の教育権が優遇される原因の根底にも「犯罪者福祉型社会」があると指摘する。
他にも、神戸の連続殺人犯「酒鬼薔薇」らの更生プログラムや、日本とはまるっきり異なったアメリカの性犯罪者対策などの記述もあって興味深い。
著者の主張は非常にユニークで大胆だ。「とんでもない考えだ」と非難する読者もいるかもしれない。実行性の面でも、まだハードルは多いだろう。
でも大胆な主張だからこそ、「刑罰とはどうあるべきか」という根本的な問題をもう一度考えさせてくれる。
評:田隈佑紀(裁判員ネットスタッフ)
陪審法廷
2009年6月23日
「法は万能なものじゃない。極端な言い方をすれば、最大公約数的な部分をカバーするガイドラインだ。法の上では犯罪とされる行為でも、状況如何によっては、それも人間としてしかたがない行為だったと認定される場合だってある。そう、法という人間の感情を排した代物に、人間の感情を吹き込む。それが陪審という制度なんだよ。」
この小説の舞台はアメリカ合衆国のフロリダ州。主人公は陪審制度によって裁かれる日本人の少年。父親から性的虐待を受けている隣家の少女のために少年は完全犯罪を目論見、殺人を犯してしまう。罪状は第一級殺人罪。(詳しくは本編にて)陪審員として選ばれた12人の“アメリカ人”はどういった判決を下すのか。
市民が市民を裁く意味とは。本書を読んでいると自然と陪審制について勉強しているという気持ちにさせてくれる。陪審制度は裁判員制度と異なるものなのだが、本書は裁判員制度を意識してつくられているらしい。
小説であるのでスラスラと読めてしまう。ぜひ移動時間などの空いた時間にでも良いので読んでもらいたい。裁判員制度について自分の中で考えが持てるのではないかと思う。
上記の文章は本編中に出てくる弁護士が語る言葉。心に残ったので載せました。
評:木曽 太地(裁判員ネット・スタッフ)
犯罪からの社会復帰とソーシャル・インクルージョン
2009年6月3日
犯罪はなぜ生まれてしまうのだろうか。どうすれば犯罪は減るのだろうか。
犯罪のない社会、皆が安心して生活を送ることのできる社会の実現は、多くの人が願っていることでしょう。
しかし、現実としては、犯罪は凶悪化し、貧富の差の拡大、就労の不安定化、若者のニート問題、福祉国家が制度化してきた社会保障の綻び、社会や集団へのコミットメントの弱化、危機意識や不安感から起こる精神的な問題の増加など、我々を取り巻く社会はいっそう不安定化していくかのように見えます。
これまで犯罪行為は、犯罪者の思考・行動特性にその原因が内在するように捉えられがちでした。多くの人にとっての「犯罪者」像は、「凶悪で、危険な人」であり、彼らは塀の向こうに隔離し、出所後も関わり合いを持ちたくない存在です。犯罪者は「社会的に排除」され、「再統合」を許されない存在であったともいえます。
しかし、1990年代からイギリスをはじめとしたEU諸国では、このような犯罪者を含む弱者に対する「社会的排除」の視点を捉えなおす動きが起こりました。これが、本書が焦点としている「ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)」という考え方です。犯罪者の社会的包摂とは、犯罪者を社会の一員とみなすことによる、社会の一員としてのアイデンティティの回復を支援することです。
本書は、犯罪社会学などを研究している大学教授や、裁判所、刑務所、少年院、ほぼ観察所に勤める実務家の方々が筆を執り、さまざまな角度から犯罪者の社会的包括の可能性について論じています。
第二章「刑事司法と社会福祉」で、元衆議議員の山本譲 司氏は、受刑者の6割が障害者であるという刑務所が直面している問題を提示し、現在自身で取り組んでいる出所者支援活動の様子をつづっています。
第七章「刑事政策における社会的包摂の意義と課題」では、龍谷大学大学院法務研究科の教授を勤める石塚伸一氏が、2005年以降急増している死刑判決の現状を示し、刑事裁判は「仇討ち」の様相を呈していると指摘しています。一方で、地方政府や民間で起こり始めている小さな変化として、北海道雨竜郡沼田町で行われている少年院仮退院者の就農訓練の取り組みや、薬物依存者回復のための支援団体「ダルク(DARC)」、「アパリ(APARI)」の活動を紹介しています。
終章「犯罪者の社会的包摂」では、津富宏氏と尾山滋氏が、犯罪者であるというアイデンティティは、他者によるラベリングによって形成されるとして、犯した罪に対しては非難するが、当人に対して「本当は良い人」というラベルの貼り直しを行うべきと主張しています。
「犯罪者」とは、本当に「凶悪で危険な」人々なのでしょうか。
「排除」することは、いったい問題の解決につながるのでしょうか。
社会が抱える課題や矛盾を理解し、犯罪者の社会復帰のための重要な視点を提起しています。
評:森下佳織(裁判員ネット・スタッフ)
死刑弁護人
2009年6月2日
私のいう『強い人』とは、能力が高く、信頼できる友人がおり、相談相手がいて、決定的な局面に至る前に問題を解決していくことができる人たちである。そして、『弱い人』とは、その正反対の人、である。私は、これまでの弁護士経験の中でそうした『弱い人』たちをたくさんみてきたし、そうした人たちの弁護を請けてきた。それは、私が無条件に『弱い人』たちに共感を覚えるからだ。『同情』ではなく『思い入れ』と表現するほうがより正確かもしれない。要するに、肩入れせずにはいられないのだ。(本書3頁より)
弁護士は、なぜ「極悪人」と非難される人間のために弁護をするのか。どのような気持ちで弁護をするのか。この問いは、刑事裁判に関するもっとも素朴な問いです。
著者の安田好弘氏は、オウム真理教の麻原彰晃、山口県光市の母子殺害事件の犯人、耐震偽造事件のヒューザー元社長・小嶋進らの弁護をしてきました。まさに世論の批判が集中する人間の弁護をしてきたのです。安田氏自身も被告人として法廷に立っています。
本書には、山口県光市母子殺害事件やオウム真理教の事件等について、どのように弁護してきたのかが詳細に記されています。安田氏の見解に対して、賛成する人もいれば反対する人もいると思います。しかし、どのような立場からみても、安田氏が「弱い人」へどのように「肩入れ」していくのか。その様子が本書から生々しく伝わってくるはずです。
なぜ弁護をするのかという問い。本書は、この「正解」のない問いに対して、一人の弁護士の生き様をもって、ごまかすことなく正面から向き合おうとしています。裁判員制度や刑事裁判を知る上でぜひとも手に取ってもらいたい一冊です。
評:大城聡(弁護士/裁判員ネット・代表理事)
歳 月
2009年5月28日
皆さんは江藤新平という男をご存じだろうか。
日本史が好きな人、もしくは日本法史に詳しい人なら言わずと知れた、初代司法卿である。明治初期、諸外国から野蛮国として蔑まれていた日本をいち早く「法治国家」として確立しようと尽力したのが彼であり、その姿を描いたのが本書「歳月」 である。
肥前佐賀出身の彼は、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」をはじめ、大久保利通の政敵としてよく描かれることが多いが、彼自身を主人公とした小説は数少ない。日本史の教科書でも、不平士族の反発運動の先駆けとして「佐賀の乱」を起こしたことが、せいぜい片隅に出てくるのみで、それゆえ、彼が近代国家日本の創成期に法整備を一手に手掛けたという業績は一般にはあまり知られていないのが実状だ。
外国の法律を、超人並のスピードで翻訳し、日本の近代法律を創りあげようとした彼の執念。そして、その知られざる実績を余すことなく伝える本書は、近代司法を知る上でも大変貴重である。
中でも面白いのは、「国を創る」という一点においての人々の気迫のぶつかり合いである。 彼は斬首という悲劇で幕を閉じるが、そこまで追い込んだのは、誰あろう、政敵である大久保であった。その大久保自身も、また、紀尾井坂で不平士族に暗殺されるという運命に見舞われる。政敵ではあったが、この2人、実は共通点が非常に多い。
個人としては無私だが、政治家としては徹底的な権力志向。まるで芸術家が創作活動に打つ込むかのように「国家」という作品創りに没頭した。職人気質という言葉がこの2人にはピッタリくる。
歴史小説では、坂本竜馬や高杉晋作などの颯爽とした人物が取り上げられやすいが、しかし、幕藩体制を壊した後、新しい国家を創設するという、まさしく根気の要る作業で、本当の意味での「明治維新」を完成させたのは、あまり陽が当たらず、人気もない彼らのような「職人」政治家だった。本書は、そのことを如実に示している。
歴史に「もし」は存在しないが、彼らがいなかったら、きっと日本の歴史も、そして日本法史も少し違ったものになっていただろう。
世界でも有数の「法治国家」となった日本。あの時代、彼らはどんな理想を抱き、法律、そして国家を創っていったのか。日本の近代司法の誕生の裏側にある、人間模様を知ることも、私たちが裁判員制度に参加する上で、少し参考になるかもしれない。
評:三好康志(裁判員ネット・スタッフ)
刑事と民事 こっそり知りたい裁判・法律の超基礎知識
2009年5月22日
突然ですが、「刑事」の反対語は何かわかりますか?答えは「犯人」ではなく「民事」です。(理由は本書にて確かめてください)裁判には刑事裁判と民事裁判があり、一つの事件で一方が有罪もう一方が無罪になることがありえるということは知っていると思いますが、ではなぜかを説明することはできますか?
本書では刑事と民事の違いなどの法律や裁判の基礎知識を学ぶことができ、それをふまえた上でビジネス、日常生活や人間関係に関するトラブルに対して刑事、民事に行政を加えた三つの法的責任の観点から丁寧に解説してくれます。また「うっかり犯罪者にならないために」と題して、本当にうっかりやってしまいそうな(例えば著作権侵害)罪を犯さないように手引きがなされています。
本書は法律の「ほ」の字も知らない人から普段授業に出ていない法学部生まで幅広く読むことができる入門書になっていて、また一般常識を養うにも最適なものとなっています。
裁判員制度で対象となるものは刑事事件であり、必然的に刑事裁判を行うことになります。しかし、いざ裁判員になって刑事も民事もわからないようでは恥をかくまではいかないと思うが何か心もとない。そんなことにならないようにまずは本書を読んで、法律の世界に一歩、いや半歩でも足を踏み入れてみることをお勧めします。
評:木曽 太地(裁判員ネット・スタッフ)
『裁判員制度と知る権利』―第4章「裁判員選任過程についての問題点」
2009年5月9日
「知らない間に知らない人たちによって作られた、裁判員制度」と、私たち一般市民は自分にどのような影響があるのかという実感もなく、何となく受け入れようとしています。
でも、犯罪に手を染めた被告人の生い立ちや葛藤…。犯罪に苦しめられた被害者やその家族たちの涙や苦悩…。裁判員になれば、そういった全ての現実が実感とともに私たちの心にのしかかると思います。「人を裁く」という行為には、裁判官たちでさえ精神的プレッシャーを抱えると聞きます。そう考えたとき、「果たして自分は人を裁くことができるのだろうか?」という真摯な疑問が、誰でも自然に湧いてくるでしょう。
著者は「人が人を裁く」という視点から、「良心的裁判員拒否」という新たな選択肢を打ち出すとともに、現行の法律や手続きにおける具体的な拒否の機会を明確に提示しています。そして制度の見直しと裁判員拒否に伴う司法ボランティア(犯罪被害者への支援や加害者の更正など)や寄付の制度化を提案しています。
「自分には人を裁けない」と判断した人は、主体的に「拒否」することもまた、社会への責任ある行動だと言えるでしょう。もし「義務」というだけで裁判に参加して「面倒だから」という感覚のままで評議に加わり、それに基づいて安易な判決が下されたら…。被告人はおろか犯罪の被害者やその家族もたまったものではありません。ですから、拒否の選択肢があるからこそ、逆に参加を決意した裁判員の責任ある行動を導き出すことができるという、いわば裏表の関係だと言えます。
本書は共著ですので、この書評は第4章のみに関してコメントしていますが、裁判員に選ばれた後に直面する悩みと向き合う時の手がかりとなるはずです。
評:坂上 暢幸(裁判員ネット・スタッフ)
精神障害者をどう裁くか
2009年5月8日
最近、新聞などの事件報道の記事において、『責任能力』という言葉をみかけることが多くなった。殺人などの重大事件に関しても、加害者が『心神喪失』と認定され、刑事的な処罰を受けないことがしばしば報道される。そもそも、加害者が精神障害者であった場合、どうして刑罰が減免されるのか。多くの国民は疑問を感じていると思う。(本書3頁より)
裁判員制度では、専門家の「鑑定」を参考にしながら裁判員が「責任能力」を判断することになります。責任能力の判断をすることは、裁判員にとって荷が重いだろうというのが本書の著者の意見です。その理由として、裁判員は、精神障害について日常的に接する機会がないこと、裁判での審理時間が短いことをあげています。
著者は、精神科医で、うつ病の薬物療法、統合失調症の認知機能障害、精神疾患と犯罪などを主な研究分野にしている人です。本書では、重大事件で責任能力がない場合に適用される「医療観察法」など専門家でも賛否が分かれる問題にも率直に著者の意見が記されています。
この本の大きな特徴の一つは、どうして精神障害者が刑罰を受けないのかについて、歴史的に考察している点です。近代刑法よりもはるかに前の古代ギリシア・ローマ時代にも精神障害者に対する刑の免除があったそうです。また、日本においても江戸時代など同様の事例を紹介しています。刑法39条にあらわれる近代刑法の「責任能力」という理論は、実は歴史的社会的な事実を理論的に後追いしたものだという指摘は大変興味深いです。
評:大城 聡(弁護士/裁判員ネット・代表理事)




























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