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【シリーズ・海外の司法参加】第2部:フランス編(上)-参審制度導入の背景-

2010年5月19日

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裁判員ネットでは、諸外国の市民の司法参加について調査する活動を行っています。日本の裁判員制度と、世界の国々の裁判制度を比較・検討しながら、 市民の司法参加について海外にも視野を広げることで、日本の裁判員制度についての議論をより深めることができるのではないでしょうか。この連載では、韓国、アメリカ、イギリス、オーストラリア、フランス、ドイツ、イタリアの7カ国を取り上げ、それぞれの国につき3回程度に分けて定期的に連載をしていく予定です。各国の事情を知ることで日本の裁判員制度を考えるうえで参考になることが数多くあると思います。どうぞ最後までご覧いただければ幸いです。

 

フランス編(上) 参審制度導入の背景

「シリーズ・海外の司法参加」。第2部となる今回はフランスを取り上げます。フランスでは市民による司法参加の仕組みとして、裁判官と市民より選ばれた参審員が合議して裁判を行う「参審制度」が取り入れられています。どのような経緯でこの制度が導入されることになったのでしょうか。まずは参審制度に関する基本的な知識を簡単におさえたいと思います。そのうえで、フランスにおける参審制度導入の背景を見ていくことにしましょう。

 

1.参審制度とは

参審制度とは、一般市民が職業裁判官とともに一つの合議体を構成し裁判する制度のことです。この合議体を構成する市民のことを参審員と言います。これに対して、一般市民から選定された陪審員が審判に参与して、事実の有無などにつき評決する制度を陪審制度と言います。
両者は司法への市民参加という点では共通します。しかしながら、陪審制度では陪審員が事実問題に限り職業裁判官とは別個・独立して判定を下すのに対し、参審制度では参審員が職業裁判官と同格の立場で審理判決に関与するという点において異なります。要するに、裁判官と一緒に判断するか否かに大きな違いがあるということです。この違いを明確に述べられる人は意外に少ないのではないでしょうか。

参審制度を採用している国としては、フランスの他にドイツや北欧諸国が挙げられます。たとえば、フィンランドでは、第1審(地方裁判所での審理)を裁判官1名+裁判員3名の参審制度で審理し、第2審以降は職業裁判官だけで審理を行う仕組みとなっています。スウェーデンでは、第2審(高等裁判所での審理)でも、裁判官3名+裁判員2名で審理を行う参審制度が採用されています。

フランスでは参審員を呼ぶとき、フランス語で「陪審」「陪審員」という言葉を使って呼びます。市民が裁く制度はフランス革命以来の伝統で、1941年まではアメリカのようにまずは12人の市民だけで有罪無罪を決し、有罪の場合は裁判官が量刑を決めていました。つまり、元来フランスは陪審制度を採用していたのです。その後現在の「市民9・職業裁判官3」方式に変更されましたが、もともと陪審員と呼んでいた名残で現在も一貫して「陪審」「陪審員」の語が使われています。しかし、裁判官とともに審理、判断する実質から、日本ではフランスの制度のことを「参審制度」と称することが多いようです。

なぜフランスの制度は陪審制度から参審制度へと変更されることになったのでしょうか。その経緯について次項で詳しく見ていきましょう。

 

2.導入の背景

フランスでの市民の司法参加の導入は219年も前に遡ります。1789年のフランス革命以後、革命の進行とともに司法改革も議論され、1791年憲法上でイギリスのそれを模範とした陪審制度を導入、制度化しました。イギリスの制度そのものを導入したわけではなく、1808年のナポレオン治罪法典の下では、陪審制度をとらない例外裁判所が許容され、陪審員も知事の選任による名望家から選ばれるなど、イギリスとは異なる独特の制度でした。

しかしながら、導入された陪審制度はうまく機能しませんでした。革命前の裁判の慣習をぬぐいさることができなかったからです。試行錯誤を重ねる中で陪審員の権限は徐々に拡大されていきました。そして、1941年のヴィシー政権下(ドイツ占領下)で、陪審員に事実認定以外にも裁判官と共同で法の適用、刑の量定を行う権限が認められるようになり、フランスの制度はドイツ式の参審制度へと変化しました。参審化するに至った理由はいろいろ考えられますが、特に次の2点が指摘されています。

第1は自由主義の後退です。フランス革命の熱が冷め、社会も保守化して自由主義的思潮が退行していくにつれ、陪審制度に対する熱狂的な支持も薄れ、かえって制度の欠陥ばかりが強く意識されるようになりました。そもそもフランスの陪審制度は、イギリスのそれとは異なり、長年の実践に基づいて歴史的に築きあげられたものではありません。フランス革命を契機に一気に導入されたものです。そのため、フランスの人々には純粋型の陪審制度に対してそれほど執着がなかったのだとも考えられます。

第2に制度上の問題が挙げられます。当初の制度では、「陪審は事実問題(罪の有無)を、裁判官は法律問題(量刑)を」といった厳密な役割分担が作り上げられ、犯罪の対象とされた事実(犯罪事実)は機械的に分けられていました。しかしながら、それは徒に事実問題に関する争点を増加させ、陪審を混乱させました。それが一因となった無罪評決が多発したこともあって、フランス市民の間では犯罪事実を機械的に事実問題と法律問題とに分離することの不合理さが次第に意識されるようになりました。また、より単純な問題として、陪審員だけで罪の有無を決めることが当時の一般的なフランス人にとって、相当に困難な作業と考えられていたことも看過できません。

このように、①犯罪事実を機械的に事実問題と法律問題とに分離することの不合理、②陪審員だけで事実問題を扱うことの困難、を中心として、フランスの市民の間では陪審制度への不満が蓄積していました。その解決策を模索する中で陪審員の審理対象は徐々に拡大されていきました。そして、1941年の法改正によって、ついに陪審員は法律問題をも審理の対象とすることになり、フランスの陪審制度は実質的に参審制度へと変貌を遂げることになったのです。

制度が参審制化した1941年以降の主な改正は、以下の「-市民による司法参加の発展-」に示すとおりです。(「海外実情調査報告(フランス)」6頁)
参審員の立場が強化され、市民の司法参加が着実に発展している傾向が窺えます。特に近年は、より精緻な議論ができるように法改正が進められ、制度の充実化が図られているようです。

-市民による司法参加の発展-

①陪審員と裁判所の協力関係の強化(実質的な参審制への移行)
1941年:陪審員と職業裁判官とは共に事実認定と量刑判断を行うこととなりました。
②民主化
1944年:女性も参加可能になりました。
1978年:全ての市民は参審員になる権利を有し、選任は抽選に基づかなければならないとする基本原則が確立されました。
③充実化
参審員の構成人数の拡大:6人→7人→9人
1970年:被害者の希望により秘密会にできる場合が定められました。
1986年:一定の事件(テロなど)については参審裁判から除外されることになりました。

今回は、参審制度の概念とフランスにおいてそれが導入されるに至った背景を取り上げました。次回は、いよいよフランス参審制度の中身を見ていきたいと思います。どうぞご期待下さい。

(裁判員ネット:清水慶太、皆川友佳)

 

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【参考文献】
・丸田隆(2004)「裁判員制度」平凡社
・読売新聞社会部裁判員制度取材班(2008)「これ一冊で裁判員制度がわかる」中央公論新社
・最高裁判所事務総局編(2000)「陪審・参審制度 フランス編」

【参考URL】
・日本弁護士連合会ホームページ(閲覧日:2010年3月13日)
 http://www.nichibenren.or.jp/ja/citizen_judge/about/column1_fr.html
・司法制度改革審議会ホームページ「海外実情調査報告(フランス)」(閲覧日:2010年3月16日)
 http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/sonota/kaigai/pdfs/huransu.pdf

 フランス編(中)(下)はこちらから

 

⇒フランス編(中)-フランス参審制度の概要

⇒フランス編(下)-フランス参審制度の運用状況と考察



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