真実と法廷の事実
2009年8月13日
こんにちは、水上です。
先々週の予告通り、今回は「真実と法廷の事実」について思うところをつらつらと・・・
法廷で使われる言葉に「事実認定」という言葉があります。
判決を下すため、どういったことを「事実」として「認定」し、その判断の基礎としたのかを示すものです。
では、「事実」とよく似た言葉に「真実」という言葉がありますが、その違いは何でしょうか?
哲学の世界では、真実=主観的事実、事実=客観的事実というのが有力な見解です。
ただ、僕の意見としては、
事実こそ、人の主観を通して認識・記録されるものであり、
真実は、人の主観や思惑や行動など、あらゆる全ての事象をありのままに包含するものではないかと考えています。
「事実認定」もまさに、何があったのかを証拠を元に、
いくつもの想像されうるストーリーから人が取捨選択し、認識・記録する行為だと思います。
「真実」を知りうるのは、当事者などのその場に居合わせた者だけです。
場合によっては、当事者がその時我を忘れていたり、死んでしまったりして、
「真実」を知るものは誰もいない可能性もあります。
その場に居合わせてはいない裁判官や裁判員には「真実」が分かるわけもありません。
どんなに被告人が疑わしく感じても、力強い弁護側の指摘によって、
検察側の有罪の立証責任が果たされないかもしれません。
逆に、疑わしく感じられなかった被告人が、検察側の立証で疑わしく思えてくるかもしれません。
それでも、基本的には裁判官自ら有罪の証拠を探しにいくことは認められていません。
裁判官や裁判員は、審理の過程の中で示された(法廷に出てきた)証拠のみを頼りに「真実」を想像し、
「事実」を認定しなければなりません。
そうすると、もしかしたら自分たちが認定した「事実」は「真実」とは違うかもしれません。
日本の刑事訴訟法では、法廷に出てきた証拠のみを基に判決を下すことが基本のシステム(ルール)とされています。
「事実」と「真実」が例え違っていても、システム上違う「事実認定」をしてしまうことが論理的に
必然である場合もあります。
しかし、
システムとしてそうだから仕方がないと投げ出すのではなく、
「真実」と違う「事実」を認定するのが怖いと逃げ出すのではなく、
「事実」を「真実」に少しでも近づけるために、
裁判員となった人たちには法廷へ行き、
被告人や証人や被害者にたくさん質問をして、
判断の基礎となる「法廷に出てきた証言」を増やして、あきらめずに「真実」を求めてほしいと思います。
さて、
東京地裁の初の裁判員裁判について、被告が控訴しました。
一般市民が参加した判決を軽んじるのか、なんて批判が今後出てくるのでしょうか?
システムとして控訴・上告が出来る以上、システムとしては問題ないわけですが、
再来週は、そんな悪いのはシステム(法)か人か?!
「悪法もまた法なり」という法諺(ほうげん)を取り上げようかと思います。