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裁判員裁判の現場から―市民モニターの声④

2011年5月10日

裁判員ネットでは、市民による裁判員裁判の傍聴と、傍聴した裁判について自分たちなりの「判決」を出してみるという「模擬評議」のふたつから成る「裁判員裁判市民モニター」を実施しています。2011年5月現在、100名を超す方に市民モニターとして裁判員裁判を傍聴していただいております。
ここでは、市民モニター終了後にお寄せいただいた裁判についてのご意見やご感想のうち、了承を得たものについて紹介いたします。

■「人を裁く」ことの難しさ

私は今回初めて裁判を傍聴しました。私は裁判所にすら行ったことがなかったので、裁判初日は緊張と不安でいっぱいでした。裁判が始まり被告人が法廷に入ってくると、私は突然言いようのない恐怖に襲われました。裁判は被告人を裁く場であるため、被告人が法廷にいるというのは当然のことです。しかし、今までテレビの映像でしか「犯人」の姿を見たことがなかった私にとって、目の前に犯罪を起こしたかもしれない人がいるという現実は受け入れがたいものでした。もしこの裁判を裁判員の立場として聞き、判決を出さなければいけないとしたら、精神的負担は非常に大きいと感じました。
裁判全体としては、検察官が大型モニターやレジュメを使用したり、物的証拠を実際に示したりしていたため、裁判員にとってわかりやすい裁判が行われているなという印象を受けました。法律知識が全くない私も、事件の概要をしっかりと理解できました。しかし、それと同時に裁判が「見世物」になってしまう可能性もあると感じました。映像を使い被害の悲惨さや犯行の凶悪さ等を視覚的に訴えられると、どうしてもその内容の衝撃から、被告人にとって不利なことばかりが記憶に残ってしまいました。裁判という場は裁判員のためにではなく、被告人のために開かれたものです。わかりやすさを求めた結果が被告人に不利にはたらくことがあってはなりません。裁判員、また市民にとってわかりやすい裁判というものをどのように実現してゆくのか、その点に関してもまだ議論する余地があるのではないでしょうか。
裁判傍聴後、実際に裁判員の立場になって自分なりの判決を出すという模擬評議を行いました。しかし、私は最後まで答えを出すことが出来ませんでした。被告人、また被害者の立場に立って考えれば考えるほど、判決をどうしたら良いのかわからなくなってしまったからです。裁判は多くの人の人生に関わります。間違えるということは決して許されません。そのプレッシャーを背負いながら裁判員は限られた時間の中で人を裁かなければならないのです。改めて裁判員制度の難しさを実感しました。
私は裁判期間中、どこにいても、何をしていても被告人のことが頭から離れませんでした。裁判が終わった今も、果たしてあの判決でよかったのかと考えてしまいます。「人を裁く」ということに明確な答えなどありません。被告人、被害者、そして自分と向きあうことで裁判の”終着点”を決めなければなりません。今回の裁判傍聴を通して「人を裁く」ことの難しさを私は初めて知りました。
(長田咲)

■模擬評議を通じて気づいた判決の重み

私が今回の裁判員裁判の傍聴および模擬評議で特に実感したことは判決の重みについてでした。普段我々が新聞やテレビから得る判決についての情報は非常に素っ気なく感じられます。実際私も、「被告人を懲役15年に処する」などと耳にしても「へぇー」と思うくらいで、その期間がどのような重さを持っているのか考えたことは一度もありませんでした。しかし、今回模擬評議をした際には、そもそも被告人に対して何年の懲役が妥当か、という部分から見つめなくてはなりませんでした。
量刑を決める際の明確な基準というものがないために、議論は蛇行を繰り返しました。自分たちが今進んでいる道は正しいのかすらわからない、そのような状況を経験してみて、今回裁判員に選出された方もこうした手探りの状態で評議をしているのだろうか、自分の考えに自信を持てずに流されてしまったりはしないだろうか、ということを考えるようになりました。
私は被告人の量刑は心身両面において考慮すべき点があるとして、検察が求刑した15年から2、3年減らした辺りが妥当だろうと考えていました。模擬評議において、私はこの「2、3年」という言葉を何気なく発しましたが、改めてよく考えてみるとそれは被告人にとっては大きな意味を持つものだと思いました。この1年の違いで出所した後に違った経験ができるかもしれない。365日も早く社会に復帰し、更生の道へ歩みだせるのかもしれない。決して甘い考え方は許されないものだと感じました。
被告人に有利な事情がある場合、それらをどのように考慮して量刑を決めるか。この点が私にとっての模擬評議での大きな疑問点でした。もちろん法律上には「~~の事情がある場合は○○年量刑を少なくする」などとは書かれていません。そこは全て裁判官と裁判員の裁量にかかっているのです。このことは、被告人の量刑の決定において、常に不確定な要素が付きまとうということを意味しています。このことに気付いた時、裁判というものの怖さを知りました。
模擬評議を終えてみて、評議を行っていた2つのグループ間において量刑の結果が大きく異なったことには非常に驚きました。このことは何よりも基準の不明確さの表れだと感じました。実際の裁判員裁判においても、基準が明確化されないままであったら、類似する事件で判決が大きく異なったものとなる、ということが起こりうるのではないかと思いました。その際の量刑のズレを、果たして「市民感覚の結果」という言葉で片付けてよいのでしょうか。今後の裁判員裁判の課題として見ていきたいです。
私は、今まで裁判員裁判を傍聴したことはありましたが、尋問の技術や法廷の雰囲気をなんとなく感じていただけで、量刑について深く考えたことはありませんでした。しかし、今回ひとつの裁判について多くの人と話し合うことを通じて、量刑判断の重さや裁判員裁判の課題などに気づくことができました。今後も裁判員裁判の傍聴を起点として多くのことを発見していきたいです。
(為田世良)



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