裁判員裁判の現場から―市民モニターの声③
2011年5月7日
裁判員ネットでは、市民による裁判員裁判の傍聴と、傍聴した裁判について自分たちなりの「判決」を出してみるという「模擬評議」のふたつから成る「裁判員裁判市民モニター」を実施しています。2011年5月現在、100名を超す方に市民モニターとして裁判員裁判を傍聴していただいております。
ここでは、市民モニター終了後にお寄せいただいた裁判についてのご意見やご感想のうち、了承を得たものについて紹介いたします。
■裁判員裁判の全日程を傍聴して見えた課題
今回初めて裁判員裁判を全日程に渡って傍聴しました。まず感じたのは、裁判員の精神的負担の大きさです。たとえば、被告人質問の場で、家族の心情を考えると非常に辛くなるシーンがありました。通貨偽造という事件名から想像していた以上に「重い」裁判となり、傍聴していた私でさえ辛くなりました。実際に量刑を出す裁判員の心の重さは相当大きいでしょう。守秘義務への負担も想像できます。私自身傍聴した後は、周りの人に思いを話さずにはいられませんでした。相談できる人、特に裁判員裁判の重みを理解している人が身近にいることが、経験者の大きな心の支えとなるのではないでしょうか。
また、裁判員の「被告人の更生に関心を持つようになった」という気持ちに強く共感しました。私も被告人とその家族の生活を、この先一生気に掛けて過ごすでしょう。被告人のその後に関する情報の開示が少し進めば良いと心から思いました。
一方でいくつか問題点を感じました。一つは、判断材料の不足です。被告人の経済状況や、被告人に対する家族の信頼の源泉など、重要と思われることが不明のまま量刑を判断するのはとても難しいことでした。裁判員にはより多くの証拠や資料が開示されているのでしょうか。例えば検察官が「今回の事件には関係なし」としてそういった資料を提示しておらず、裁判員も私たちと同じように判断材料の不足を感じたとしたら、裁判員は検察や弁護人が出した求刑に頼らざるを得ません。そうだとしたら、裁判員の意義が失われてしまうのではないでしょうか。
もう一つは裁判員となる人の意識の問題です。質問の的確さや裁判に臨む姿勢(初日は居眠りをする裁判員もいました)に差が見られ、被告人への不平等にならないかといった観点から、裁判の始まりから真摯に向き合う姿勢を持ってもらうことが必要であると感じました。
これほど他人の人生について真剣に考える機会はないと思います。未来の裁判員のため、裁判員経験者や傍聴をした私自身が、経験を伝えることの重要性を改めて感じることができました。
(松下文音)
■裁判員と法律家の着眼点の違いについて考える
私が今回の裁判を傍聴して感じたことは、量刑判断において法律の知識を持たない一般市民と、法律の専門家とでは重視するポイントが異なるのではないかということです。
傍聴者同士のディスカッションや模擬評議において、私は常に被告人の人柄や生活環境などの個人的な事情に着目して意見を述べていました。法律の専門的な知識を持たない私は、被告人の犯行動機や更生可能性について考えることが多かったのです。しかし判決では被告人の個人的な事情はあまり考慮されず、重視されていたのは彼が犯した罪が持つ社会への影響の程度でした。「被告人が社会に与えた影響は大きいものではない」というのが、量刑判断のポイントにされたようです。確かに被告人が偽造した紙幣は稚拙であり、実質的被害はありませんでした。
「被告人個人の事情」と「犯罪が持つ社会への影響の程度」、どちらを重視するかによって量刑は大きく変わってくるように思います。現に模擬評議での私の判決は、前者に重点を置いたために実際のものよりも重いものでした。執行猶予中の犯罪であることや、犯歴が多いことから、更生可能性も低いと判断したためです。
なぜ、重視する点に違いが出てくるのでしょうか。私は法律の知識が深く関連していると考えます。法律の知識をあまり持たない一般市民であれば、被告人個人の事情に目が向きやすくなるように思います。しかし裁判官などの法律の専門家であれば、「法律は社会の秩序を守るために存在する」ということを意識して、犯罪が社会に及ぼす影響を重視するはずです。
裁判員裁判とは、この両者の感覚を合わせて判決を下すことを目指すものだと私は考えます。評議の場で「被告人個人の事情」と「犯罪が持つ社会への影響の程度」の双方を考慮し、一方に偏らず判断することは容易なことではありませんが、公正な裁判につながるはずです。このような点において、市民と司法がつながることの意味があるのではないでしょうか。
(嶋村創)